日記など

人はこれを日記と呼ばない

アイソーポスのために

昨日夢の中で飲んだぶどう味の粉末ジュースはとんでもなく酸っぱくて、舌が痺れた。「こんなもの二度と飲むか!」と思った。

実は、私は粉末ジュースを飲んだことがない。こんな夢を見たからには、これからも飲まずにいるほかないだろう。酸っぱいぶどうが本当にぶどう味だなんて、すごく貴重な経験だろうから。

Skinwalker

私は「それらしさ」を重視するタイプだ。

外国語を学ぶときは発音ばかり気にしている。条件異音がどうだの、連音がどうだの、そんなことを調べる間に定型文の一つでも覚えた方がよい気がするが、どうしても「それらしく」読めるようになりたい気持ちが先行してしまう。

プログラムを書くときもそうだ。マルコフ連鎖を利用して文章を生成する関数にnecromanceという名前を付けたことがある。こんなものはgenerateあたりでよいと思うのだが、どうしても捻って「それらしい」命名をしたくなる。

タイトルのskinwalkerとは、ナバホ族に伝わる悪い魔術師のことだ。彼(?)らは動物に化けたり、憑依したりといった能力を持つ。私もまた、「それらしさ」の皮を被っているskinwalkerだ。

またやってしまった。賢しいふりをしても何にもならないのに。

不毛

フィクションを書ける人を尊敬している。

ありもしない話を破綻させずに膨らませるなんて、私にはできない。第一、発想それ自体が私には難しい。空を飛ぶ猿*1なんて、どうしたら思いつけるのだろう。

本を読んだことがないわけではない。それどころか、映画もドラマも観たことがある。しかし「この表現はいいな」だの、「こういう設定は格好いいな」だの、そういうことは大して考えずに読んできたので、糧とすることができなかったのだ。それがこの年になってようやくまずいことのように思われてきた。ある話について、それが「好き」か「嫌い」かすらぼんやりとしていた。「この本はこういう話なのか、ふうん」で過ごしてきた私は、薄っぺらい人間になってしまった。

尊敬するだけでは何にもならない。私という土は瘦せたままだ。こんなところにいくら種を蒔いたとて、何か生えてくるはずもなく。別に物書きになりたいわけではないが、発想が豊かであるに越したことはない。

家にある本を読み返そう。肥沃とまではいかなくとも、少なくとも今よりましになるだろうから。

メルヘン依存症

よく妄想する。いい加減やめた方がよい癖だとは思っているのだが、なかなかやめられないでいる。現実逃避の甘さにすっかり慣れてしまった。

全人類の背中から翼が生えていたらどうだろう。後身頃に大きな穴が二つ空いた服が売られるのだろうか。男子100メートル飛行の部の世界記録は何秒だろうか。翼を極める関節技とはどのようなものだろうか。天使はより人間離れした姿で描かれるだろうか。

あるいは、テレキネシスが具わっていたら?何かを持ち上げるときに腰を痛めずに済むのではなかろうか。それともやはり酷使すればどこか痛むのだろうか。暴行事件を起こした人が「私はそばにあった自販機を彼にぶつけました」と言ったとして、信じてもらえるだろうか。その人の仕業だと証明する術はあるのだろうか。

ヒトが夜行性だったら、瞳孔はネコのように縦長になっただろうか。それともヤギのように横長になっただろうか。指の本数が今よりずっと多かったら、キーボードも広くなるのだろうか。ホームポジションはどのようになるのだろうか。魔法も使ってみたい。手のひらから炎を噴き出させたい。

そんなことばかり考えている。

物持ちがよすぎる

今日は歯医者に行ってきた。いい年して磨き残しを指摘されてしまった。

フッ素の泡で満たされたマウスピースをくわえてぼんやり待っていると、なんだか自分がおしゃぶりを吸う赤子のように思えてきた。私は歯磨きさえ満足にできないのか。歯医者(に限った話ではないが)らしいあの優しい話し方も、まるで大人が子供をあやすときのそれのようではないか。涎掛けまでつけている。これでは大きな子供だ。

苦労を知らないと年の割に幼く見えてしまうというのは本当だろうか。キーボードを打ちながらふと下を見ると、情けない両手がそこにある。鏡を見れば頼りない顔が映る。これは確かに幼く見えるかもしれない。ただし両の腕は例外で、枯れ枝のように細い。

年相応に生きたい。いつもそう思っているが、思うばかりで毎日が過ぎていく。肉体が年をとるのは止められないが、精神だけは幼いままであれてしまう。苦労を知るにはどうしたらよいだろうか。何もせずにいることが得意な私には、それが分からない。いかに低い段差であっても、上らないことを涼しい顔で選択できる。

人が階段を自力で上り下りできるのは二歳あたりからだという。私の精神は生まれたてということか。私の中にある幼性*1を捨てる機会を永久に失ってしまわないように気を付けなくては。いつまでも持っていてよいものではなさそうだから。

*1:よい名付けだと思ったが、Googleにて「幼性」で検索したところいかがわしいサイトが出てきてショックだった。

消極的、あまりに消極的

今のところ後ろ向きなことばかり書いている。ずっとそういう人間なので仕方ないのだが、たまには何か前向きなことを書くべきだと感じる。

後眼(うしろめ)という妖怪がいる。いる、というのは適当でない表現だろうか。「実際にいるかどうかはともかく、(一部の文化圏では)いることになっている」ぐらいにしておこう。なんとこの妖怪、人間のような姿をしているが、後頭部に一つの目を持つらしい。それと鋭い爪を具えた指が一本。後ろ暗さの擬人(?)化だろうか。

私は未来のことを考えるのが好きではない。隙あらば過去に思いを馳せている。別にやり直したい選択があるとか、し損ねたことがあるとか、そういうわけではないが。私は過去が好きだ。既に終わったことだからだ。よくなることがない代わりに、悪くなることもない。しかし未来はそうではない。

私には向上心がない。惰性で生きている。人間は坂を上ることも下ることもできるが、ボールは勝手に下へ転がっていってしまう。私はボールのようだと言いたいところだが、人間の形をしていて、人語を解する私は人間のごとくありたい。だから何か人型のものに喩えよう。後眼はどうだろう。過去ばかり見ている私の目は、後ろについている。

Nur ein Idiot glaubt, aus eigenen Erfahrungen zu lernen. Ich ziehe es vor, aus den Erfahrungen anderer zu lernen, um von vornherein eigene Fehler zu vermeiden.

「学びは自身の経験から得るものだと愚者のみが信じている。私は最初から失敗するのを避けるために、他者の経験から学ぶほうを好む。」*1とは、かのビスマルクの言である(ということにされている*2)。愚者でさえ己の過去に学ぶというのに、振り返るだけの私は後眼の中でも飛びぬけて落ちこぼれだ。

ただし私は後眼と異なり、爪をちゃんと切っている。妖怪である彼らと人間である私の間の壁は、その程度の厚みしかない。

*1:筆者訳

*2:1872年に出版されたLe Dernier des Napoléonという本の中で、"Die Thoren behaupten, daß man nur immer auf seine eigenen Unkosten lernt .... ich habe immer gesucht auf Kosten anderer zu lernen"「愚者は、人は自身の犠牲からのみ学ぶと主張する(中略)私は常に他者の犠牲から学ぼうとしてきた」という言葉がビスマルクのものとして紹介された。それが翻訳・逆翻訳を経て今の形になったとされる。引用はこちらのサイトで紹介されている2010年版の文に依った。

呪いをかけた話

私は趣味も特技も持ち合わせていない。ただ、好きで調べている・いたものがいくつかある。その一つが人名にまつわるあれこれである。

Behind the NameNordic Namesさらに怪しい人名辞典、そしてもちろんWiktionaryには随分お世話になった。好きで調べている割に紙の人名辞典には未だ手を出していないのだが、ゲームなどのキャラクターに名前を付けるときに役立てるぐらいだからこれでよい(と思うことにしている)。

去年か一昨年か忘れてしまったが、ドラゴンクエストVを久しぶりに遊んだ。主人公の子供に名前を付けるとき、先述の知識が大いに役立った。男女の双子はそれぞれセオドア、ドロシーと名付けた。

彼らにはお互いに支えあってほしかったので、対になる名前を付けようと思っていた。そこで一方の名前を決めてから、その構成要素を入れ替えたものをもう一方の名前とすることに決めた。Dorothyとは、古代ギリシア語で「贈り物」を意味するδῶρον(dôron)と「神」を意味するθεός(theós)から成るギリシア名Δωρόθεος(Dōrótheos)に由来する名前である。これら構成要素を入れ替えたのがギリシア名Θεόδωρος(Theódōros)であり、そこからTheodoreが導かれる。どちらも「神の贈り物」ぐらいの意味だろう。

この名前を選んだのには理由がある。ストーリーはほとんど忘れていたが、石化させられた主人公夫婦が我が子らに救出されるということだけは頭の片隅にあった。私は、彼ら双子は主人公にとって神(脚本)からの救いの手に他ならないと考えた。それが理由だ。

だが、私が彼らに名前を付けたのは石化される前のことである。ということは、私は名付けという行為によって、我が子に親を救う使命を背負わせたことになる。子が親のために生きるかどうかなど、子が決めるべきことだ。それを生涯を共にする名前に託した私の行為は、醜いものである。

名付けとは、親が子に与える最初の祝福だと思う。しかし同時に、祝福とは体のいい呪いにも見える。