日記など

人はこれを日記と呼ばない

日記と私

昔から日記が苦手だった。

その日あったことを一つ抜き出して書く。それだけのことが私にはどうにも難しい。小学生は見るもののほとんどが新鮮だったはずだが、その頃から既に日記への苦手意識はあった。というか、自分について書いたり話したりするのが下手で、宿題以外では日記など書いてこなかったし、卒業文集も締め切りが迫らなければ筆が進まなかった。

初めの一歩がなかなか踏み出せない。私がどう書き出すべきかを考えている間に、級友らはさっさと書き進めていってしまう。今のところ、置いて行かれてばかりの人生だ。

一人で日記を書くという行為は単為生殖のようだ。いくらページを遡ってもそこには自分しかいないし、手を付けていないページはこれから自分になるだろう。ただ、いくら「自分」とはいっても、やはり足の遅い私と並走させるのは申し訳ない。私が書き進めない限り、日記の中の私に次の日が来ることはない。

私は気づいた。出来事を書くだけが日記ではない。そのとき考えていることを書いてもよいのだ。こんな簡単なことに気づくのにいったい何年かかったのだろう。小学一年生が七歳だから、十六年ぐらいか。またしても置いて行かれてしまった。

その日の出来事について己の考えを書けるなら、それが一番よいと思う。しかし、視野の狭い私では日常に潜む日記の種を見つけることができない。だから書きながら考える。

私は日記が苦手だ。

考えるほどに

私には自信がない。

今日、長野県は有賀峠を越える機会があった。諏訪側に抜け、視界が開けたときに「綺麗な景色だな」と思った。しかし、その感想は本当に自分のものだったろうか?

小さい頃から「山や川といった自然とは美しく素晴らしいものだ」という風潮の中で生きてきた。私はその感覚を特に疑うことなく受け入れ、剰え咀嚼することすらせずに成人してしまった。ならば、今の私はただ「自然を見たら感動する」という決まりに従っているだけではないのか?果たしてまっさらな状態の私は、雪を頂く山を見て感嘆できるだろうか?

「自然は美しい」と思うことと、「自然は美しいものだ」と思うこととの間には大きな隔たりがあるように感じる。他にもこんなことはないだろうか?己の感覚のうち、単なる真似事でないものはどれだけあるだろうか?省みれば、そんなものは一つも持ち合わせていないような気がしてきた。私はただ口を開けている袋のようである。

ときどき私は悪いことをしているように感じる。誰かよりあとの時代を生きる者は、先人の知恵を土台にものを考えることができる。そこへ行くと、ただ貰うだけの私はてんでだめだ。後世のアドバンテージを一切活かせていない。そんなことを考えるたびに、先達に向かって唾を吐いているような気分になる。

こうして私は自信を失う。